レジェンドへの旅立ちを、今は見送るしかない
去る3月29日。
プロレスゲームの父、増田雅人氏が逝去された。
48歳という若さであった。
新作が出る毎に新たな要素が追加され、選手数は際限なく膨らみ、
選手の動きをロジックで細かく弄ることができるようになっていったファイプロであったが、
芯の部分はファミコンディスクシステムの「プロレス」から大きく変化することはなかった。
それほどに、氏の構築したシステムはプロレスをゲームとして楽しむ上で完成度が高かった。
思えば、私をここまでのプロレス好きへと変貌させたのは、他ならぬファイプロであったと断言できる。
深夜のプロレス中継を録画観戦し―時にナイター中継延長に泣き―、
その興奮冷めやらぬ内に次期タイトルマッチのシミュレーションを。
団体の垣根が果てしなく高かったあの時代に、夢のマッチメイクを。
そこには、いつもファイプロがあった。
プロレスを通してファイプロを楽しみ、ファイプロを通してプロレスを楽しむ。
この相乗効果でプロレスの深みへと嵌まり込んだのは、きっと私だけではない筈。
ファイプロなくしてBLOGPOWERなし。
増田雅人さん、ファイプロを世に出していただき、本当にありがとうございました。
プロレスゲームの父、増田雅人氏が逝去された。
48歳という若さであった。
新作が出る毎に新たな要素が追加され、選手数は際限なく膨らみ、
選手の動きをロジックで細かく弄ることができるようになっていったファイプロであったが、
芯の部分はファミコンディスクシステムの「プロレス」から大きく変化することはなかった。
それほどに、氏の構築したシステムはプロレスをゲームとして楽しむ上で完成度が高かった。
思えば、私をここまでのプロレス好きへと変貌させたのは、他ならぬファイプロであったと断言できる。
深夜のプロレス中継を録画観戦し―時にナイター中継延長に泣き―、
その興奮冷めやらぬ内に次期タイトルマッチのシミュレーションを。
団体の垣根が果てしなく高かったあの時代に、夢のマッチメイクを。
そこには、いつもファイプロがあった。
プロレスを通してファイプロを楽しみ、ファイプロを通してプロレスを楽しむ。
この相乗効果でプロレスの深みへと嵌まり込んだのは、きっと私だけではない筈。
ファイプロなくしてBLOGPOWERなし。
増田雅人さん、ファイプロを世に出していただき、本当にありがとうございました。